兼好塚のオオツクバネガシ

ブナ科/オオツクバネガシ

吉田兼好(よしだ けんこう)は、鎌倉時代から南北朝時代の随筆家・歌人、兼好法師(けんこうほうし)とも呼ばれる。本名は卜部兼好(うらべ かねよし)。兼好の父は京都の吉田神社の神職であった。後宇多上皇の北面の武士として仕えるが、上皇の死後、出家して兼好(けんこう)を名乗った。彼の随筆『徒然草』は自然の風物などが散文として書かれ、日本の三大随筆に数えられる。また歌人としても活躍し、二条家和歌四天王の一人にも数えられている。諸国遍歴ののち京都双ヶ岡(ならびがおか)に閑居し、ここで亡くなったとされる。
ところが、伊賀の郷土史研究家・中義貫さんによると伊賀市種生(たなお)の国見山で亡くなり、草蒿寺跡に墓塚が現存するという。この「草蒿寺跡・吉田兼好ゆかりの地」は昭和47年当時の青山町指定史跡。この兼好法師伊賀終焉説を裏付けるように、種生の常楽寺には草蒿寺から伝わったとされる、藤原光成筆の「吉田兼好像」がある。

この史跡兼好塚で草蒿寺跡の森林には、オオツクバネガシの幹周囲353cm、樹高16.5mの巨木がある。この地のカシの多くは、ツクバネガシのように葉柄が短く、葉身部分はアカガシのような葉のオオツクバネガシが多い。