地蔵の大松

マツ科/クロマツ

仏教伝来のあと、崇仏派の蘇我馬子(そがのうまこ)と排仏派の物部守屋(もののべもりや)の間でするどい対立があった。この争いは皇位継承まで巻き込んだが、この「蘇我・物部の決戦」は用命2年(587)、崇仏派 の蘇我氏が勝利して終わった。さてこの決戦のあと、蘇我氏は仏教以外の礼拝を禁止した。このため、この地の人達はこれまで地蔵菩薩を信仰していたので、この石像を土に埋め、この目印にマツをを植え、密かに信仰することになった。時は過ぎて、享保17年(1732)の大旱ばつの時、この地を堀起こすと、地蔵菩薩が出土すると共に、そこから水が湧きだし、田を潤したという。以来感謝の念をこめて、この石像をここに祀り、このマツを地蔵大松と呼ぶようになったといわれる。

更に時は過ぎて戦時中のこと、近くにあった「三重海軍航空隊」基地では、飛行機の発着の邪魔になると、この大松は伐採が計画された。この直後、航空隊ではにわかに事故や病気が発生、この木の祟りだとして、この大松は残された。この松は幹周囲640cm、樹高15.5m、枝張りは30mもあり、大小31本の鉄の支柱で枝を支える。