野村一里塚のムクノキ

ニレ科/ムクノキ

一里塚とは江戸時代、幕府が江戸日本橋を起点として、旅人の道標・休憩所として街道筋の一里毎に直径約10m程の塚(小山)をつくり、塚の上には木を植えるなどして配置されたもの。この塚に何を植えるか、三代将軍家光に伺いをたてたところ、「余の木(余った木)を植えよ」とのことだった。これを、三代の将軍に仕え、老齢のため耳の遠かった家老・土井利勝が「エノキ」と聞き違え、各地にエノキが植えられたという。

ところが、亀山藩ではエノキによく似たムクノキとまた間違えて植えてしまった、いま、このムクノキは3.5mの塚の上で、幹周囲570cm、樹高11.5mになっている。このムクノキにくっ付いて、偶然にエノキが育つ。 かつて、南側の塚は大正三年(1914)に取り去られてしまったが、これは本物のエノキであった。  文政9年(1826)、長崎に滞在したフォン・シ-ボルトは江戸参府の旅に同行し、『江戸参府紀行』を著し、この付近を通ったとき、一里塚の正確さに感嘆したと書いている。かつての東海道一里塚は、県内に12ヵ所あったが、昔のままの形を保つのはこれだけ。昭和9年に国指定の史跡になっている。